2014年 07月 04日
「死」と向き合う
ご迷惑をおかけしました。
実は現在36歳の僕にとって、身内の葬儀に参加することは人生初でした。
今までなかったことはよいことではあるのですが、幼い頃に「死」というものに対してしっかり向き合うということはしておくべきなんでしょうね。
まぁ、これはのぞんで向き合うものではなく、向き合わざるを得ないという限られた状況ではありますが。
自分の子どもたちを見ていてそう思いました。
祖母が最後のお別れをしているとき、一緒に涙を流していたこと。
ひとの気持ちになって物事を考えるというのは理屈ではわからないものです。
大切なひとの「死」というものは、そのひとへの感情が強く出てくるため、気持ちがとても伝わるものです。長年連れ添い、苦楽をともにし、ともに息子たちを育て上げ、ともに孫たちの成長をたのしみ、そして亡くなった祖父へ対する、祖母の胸いっぱいのあふれる思いが、まだ幼いひ孫である僕の子どもにも届いたのでしょう。
92歳の祖父の骨は骨壺にいっぱいになり、斎場の方が、このお骨は50〜60代で亡くなる方と同じぐらい量も質もしっかりしている、と話されていたことを受けて、
僕の息子が
「俺が死んだときも骨壺をいっぱいにしたいな。」
と言ったこと。
死ぬとひとはどうなるんだろうというのは、一度は誰もが考えるものかと思います。
しかし、それだけでなく、家族みんなに送り出されていくことを意識した息子の発言をきいて、
死というものに対し、「ひとつの生の終わり」という見方だけではなく、違った側面での捉え方をしていることを感じました。
「死」というものは、
当たり前ですが誰しもが必ず遭遇するものです。
それについてどう考えるか、どう胸に刻んでいくかは、
ひとそれぞれが、それぞれに遭遇した「死」を通して勝手に行っていくものなのでしょう。
遭遇する「死」がどんなものかということにもなりますが。
教育とは本来、こういう姿であるべきもののように思います。
真剣に考え、想う対象に遭遇すれば、本人たちが考えや想いを膨らませていく。
しかし、今の時代、
幼い子どもたちが「真剣に考え、想いをめぐらせる」対象と遭遇する機会は実はかぎられているのではないかとも思います。
まだ幼い子どもたちが、教えられなくとも自然と真剣になる場面というのは、対象も真の意味で、真剣でなければ子どもたちの心には響かないからです。
なにを言わなくとも真に真剣な場を、
花に囲まれた冷たい曾祖父の亡骸と、その冷たい曾祖父の手を握りしめてしばしの別れをつげる曾祖母、
そして骨壺にあふれんばかりの曾祖父の堂々とした立派なお骨と、そのお骨をそっと骨壺へうつす曾祖母や祖父達が、
僕の息子達に身を以て授けてくれたこと、僕はとても有難く思います。じいちゃん、ありがとう。
長寿社会ではありますが、
子どもが葬儀に参列することは教育上、とても大事なことなんじゃないでしょうか。
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