2014年 07月 10日
人と自然と響きあう
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2014年 07月 08日
早起きは三文の徳
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2014年 07月 04日
「死」と向き合う
ご迷惑をおかけしました。
実は現在36歳の僕にとって、身内の葬儀に参加することは人生初でした。
今までなかったことはよいことではあるのですが、幼い頃に「死」というものに対してしっかり向き合うということはしておくべきなんでしょうね。
まぁ、これはのぞんで向き合うものではなく、向き合わざるを得ないという限られた状況ではありますが。
自分の子どもたちを見ていてそう思いました。
祖母が最後のお別れをしているとき、一緒に涙を流していたこと。
ひとの気持ちになって物事を考えるというのは理屈ではわからないものです。
大切なひとの「死」というものは、そのひとへの感情が強く出てくるため、気持ちがとても伝わるものです。長年連れ添い、苦楽をともにし、ともに息子たちを育て上げ、ともに孫たちの成長をたのしみ、そして亡くなった祖父へ対する、祖母の胸いっぱいのあふれる思いが、まだ幼いひ孫である僕の子どもにも届いたのでしょう。
92歳の祖父の骨は骨壺にいっぱいになり、斎場の方が、このお骨は50〜60代で亡くなる方と同じぐらい量も質もしっかりしている、と話されていたことを受けて、
僕の息子が
「俺が死んだときも骨壺をいっぱいにしたいな。」
と言ったこと。
死ぬとひとはどうなるんだろうというのは、一度は誰もが考えるものかと思います。
しかし、それだけでなく、家族みんなに送り出されていくことを意識した息子の発言をきいて、
死というものに対し、「ひとつの生の終わり」という見方だけではなく、違った側面での捉え方をしていることを感じました。
「死」というものは、
当たり前ですが誰しもが必ず遭遇するものです。
それについてどう考えるか、どう胸に刻んでいくかは、
ひとそれぞれが、それぞれに遭遇した「死」を通して勝手に行っていくものなのでしょう。
遭遇する「死」がどんなものかということにもなりますが。
教育とは本来、こういう姿であるべきもののように思います。
真剣に考え、想う対象に遭遇すれば、本人たちが考えや想いを膨らませていく。
しかし、今の時代、
幼い子どもたちが「真剣に考え、想いをめぐらせる」対象と遭遇する機会は実はかぎられているのではないかとも思います。
まだ幼い子どもたちが、教えられなくとも自然と真剣になる場面というのは、対象も真の意味で、真剣でなければ子どもたちの心には響かないからです。
なにを言わなくとも真に真剣な場を、
花に囲まれた冷たい曾祖父の亡骸と、その冷たい曾祖父の手を握りしめてしばしの別れをつげる曾祖母、
そして骨壺にあふれんばかりの曾祖父の堂々とした立派なお骨と、そのお骨をそっと骨壺へうつす曾祖母や祖父達が、
僕の息子達に身を以て授けてくれたこと、僕はとても有難く思います。じいちゃん、ありがとう。
長寿社会ではありますが、
子どもが葬儀に参列することは教育上、とても大事なことなんじゃないでしょうか。
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2014年 07月 01日
人事を尽くして天命を待つ
今日から7月ですね。
今年に入って丁度半年が経ち、開院して半月が過ぎました。
まず順調といってよいのではないかと思います。
しっかりと根付いていけるようこれからもがんばってまいります!
しかしですね、
この七月、ブラジルW杯が行われているときに、
よもや自分が独立開業しているとは予想だにしていませんでした。
新たに開業するにあたり、資金計画をしっかりたてて、何年も前から準備している人も多くいるでしょうね。
その計画力、実行力、とても尊敬します。僕にはとてもできませんでした。
未来に自分が在りたい状態を想像し、そうなるために逆算して
今現在、自分は何をすべきか、
一ヶ月後、半年後、さらには一年後、三年後と綿密に掲げられる人も世の中には多いですが、
僕はこれが苦手なのです。
予期せぬことに遭遇することが多かったからかもしれませんが、未来に対してあまり構えたくない。
行き当たりばったりに思うかもしれませんが、それとも違う。
今、自分がやるべきことをやる。
やることにベストを尽くす。
それが僕の生きるスタイルであり、それが僕の自然であり、そうして積み重なる時の流れ、僕はただその流れにのっていく。
自分ではコントロールできないもの、未知なるものに対して憂えず、抗わず。構えず、固まらず。
流れに対して構えてはいなかったけれども、なんとか人事を尽くしていたからこそ、天命のタイミングを受け取ることができ、
今回でいうと開業ということへ自然な流れが繋がっていったのでしょう。
「人事を尽くして天命を待つ」
好きなことばです。
このスタンスでこれからもいきます。
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2014年 06月 28日
望み診る
大きく四つの段階にわかれます。
「四診」とよばれ、
「望診」「聞診」「問診」「切診」の四つを指します。
今日はその「望診」について少し話します。
一般的には聞き慣れないこういった言葉を目にしたとき、あるいは耳にしたとき、
東洋医学の場合はまず漢字の意味を調べることをお勧めします。
「望」という字には、
①のぞむ。見えにくい遠方を見ようとする。また、遠くからながめる。
②のぞむ。まだかまだかと待ちわびる。得がたいものを得たがる。ほしがる。などの意味があり、
もともとの原字は、人が伸び上がって立つさまを表し、ないものを求め、見えないところを見ようとする意を含むとあります。(出典:藤堂明保・加納喜光 編 新漢和大字典)
深いですね。
「視診」とは違うわけです。ただ視ただけでは見えないものを診るのです。
身体がどのような状態かという目的意識をもって診るのですが、
凝視をするのではなく、望み診るのです。
患者さんはいきなり目の前に突然現れませんからね。
患者さんが扉を開けて入ってきたときから、東洋医学の場合、診察ははじまってるわけです。
「望診」はさらに、
「顔面気色診」「舌診」「爪甲診」「眼診」「毛髪診」などにわかれますが、
それについてもまたおいおい話していきます。
今日はこの辺で。
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